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「せっかく目一杯用意していった投剣と矢を
一本も使う間がなかったというのは、どうもしゃくにさわるな。
まるで役立たずを絵に描いたようではないか」
言葉とは裏腹のくつろいだ笑顔で、ミツァラが言った。
「まあ、そういうめぐり合わせの時もあるさ。
君の眼にとまらなかったアルケドは
北側からカリックスのほうへ逃げたのだろうな…」
ティモシィが、ゆったりと壁に背をもたれ、続き部屋の扉を眺めながら言葉を返した。
「アルケドか…。力不足に気づいたならば
しばらくは身をひそませているかな?エルディンの一派だったあと二人…
ラキスとカーンは、どこへ消えたのか不明か…」
「ククノスがちらりともらしたが、ラキスとカーンは反逆の意志をひるがえしたようだ。
いずれはド・ボーモンの地へ戻るのではないかな…」
「ふむ、それにしても人のさだめとはわからんものだな…。
あのエルディンが、ああもあっけなく病(やまい)に斃(たお)れるとはだれが…」
扉がひらき、ユリアナと、ラナのかかりつけの医者が姿を現し
ミツァラは中途で言葉を切った。
「ジュノーの傷は軽いそうですわ。ラナも今日はとっても具合が良さそうで…」
手当ての済むのを待っていた二人へ
交互に明るいほほえみを向け、ユリアナが告げた。
「そうそう、心配ない、心配ない、では、わしはまた明日来るから」
小太りでささやかな頬髭(ほほひげ)を生やしている近在の医者は
あまり威厳のない早口で言った。
「お入りになって…。先生をお送りしてまいりますから…」
ユリアナが言い、ミツァラとティモシィは黙礼して続き部屋へ入った。
天蓋(てんがい)の寝台に、ラナは半身を起こしてすわり
足元に近い椅子にジュノーが浅く腰をおろし
そのすぐかたわらにクリスタが立っている。
眩しい日差しをさえぎっている亜麻色のカーテンをバックに
狼犬のマーシーが、変わらぬ(ぼうよう)茫洋とした寝姿を見せている。
「ラナが、怪我をした夜のことを思い出したそうだ」
ティモシィを見上げ、ジュノーが言葉をかけた。
「ほう…?」
ティモシィはわずかに眉を上げ、ラナへ近寄った。
「さきほど、ユリアナと四方山(よもやま)話をしていたら、突然
はっきりと頭に思い浮かんだの…。
わたしは涸(か)れ谷で落石に遇ったのですわ」
いかにも正気らしい落ち着いたようすで、ラナはティモシィへ告げた。
「落石!? ではノームバルとは関わりなしか?」
ミツァラが意外そうな声を上げ、両腕を組んで首をかしげた。
「あの夜、子供達を先に帰して、わたしは独りで岩にすわって
大きな月を眺めていたの…。アティスの歴史のことや、和平のこと
戦いのこと、長老のことや、兄さんのこと…、それから自分自身のことを
いろいろ考えて…ときが経っていったわ…」
ラナは、ティモシィからミツァラ、クリスタ、ジュノーへと視線を移し
再びティモシィへ深いまなざしを向けた。
「…帰ろうとして立ち上がったのだけれど
なにか奇妙ないざないを感じて、奥へ進んで行ったの…。
薄闇の中に高い崖が道を阻んでいて、上空に風の音が鳴っていた…。
崖の上を見上げた時、乾いて崩れやすくなっていた岩肌から
いくつもの石塊(いしくれ)が落ちて来て、頭がくらくらしたわ…。
わたしは帰らなくてはと思って、少し歩いて、また少し歩いた…。
だから、倒れた場所が崖から離れていたのでしょうね…」
「災いを察知しなかったのか…? 君らしくもないな」
穏やかに、ティモシィが言った。
「災いに魅入られたのかもしれないわ…。
だれでも、すべてが空しく思えて
生を放り捨ててしまいたくなるときがあるのではなくて…?」
ラナは、小さく、しかし、どこか挑(いど)むような口調で言葉を返した。
クリスタが、内省の表情を浮かべているティモシィの代わりに
「それは戦士にはありがちのことだろう。
多少とも物事を深く考える者ならば、なおさらだ」と、あいづちをうった。
ティモシィは、すっと右手を伸ばし
だいぶ血の気がよみがえってきているラナの頬に、軽く触れた。
「わたしを憎んでいるのかね…?」
このうえもなくやさしげに、ティモシィは問いかけた。
「…わからないわ…。もし憎んでいると言ったら、どうするの?」
「さて、どうするかな…。君に殺されるのは、べつだんかまわないが…」
「それほど憎んではいないわ…。わたしは、きつい人間ではないし…」
「それは助かった…」
ティモシィは妹の頬から手を離し、泰然(たいぜん)と微笑した。
「…あー、その、おぬし達は兄妹喧嘩(きょうだいげんか)をしていたのか?
ちっとも気づかなかったんだが?」
ミツァラが、とまどい気味に口をはさんだ。
「わたし達は仲が良すぎてね…。
そのため、見解の相違を許せなくなることがあるのさ」
ティモシィが、ラナから眼を離さずに答えた。
「ふーむ、どうもよくわからんが…」
組んでいた腕をほどき、困ったように栗色の長髪をなでつけ始めた
ミツァラを見て、ラナはほほえんだ。
「…ラナ…、アティスもノームバルも、戦士達は
しばらくは平穏を保って行くだろう…。わたし達も
この辺りでみずからのことを…アティスの一員としてではなく
自由な魂(たましい)をそなえた独りの人間として…
考え直してみたいと思うのだが、どうかね?」
「…自分のことだけ考えるのは、贅沢(ぜいたく)だけど、少し寂しいわね…」
ラナは眼を伏せ、深い吐息をついた。
そして、ゆっくりと顔を窓辺の狼犬(おおかみけん)へ向け、
「マーシー…」と、呼んだ。
「いい子ね、マーシー…。わたしのために
一番やさしい人がだれなのか、教えてくれない…?」
狼犬は、前足に乗せていた毛むくじゃらの顔を起こし
ラナを見上げ、いかにも犬らしい大あくびをした。
それからのっそりと立ち上がり、大きな体をかすかに左右に揺らしながら
ティモシィの脇をすり抜け、ミツァラの正面へ進んだ。
「なんだ、マーシー…?」
ミツァラが差し出した手に長い鼻面(はなづら)を押しつけ
ふーと息を洩らし、狼犬はその場にすわり込んだ。
「ありがとう、マーシー…。ミツァラ、わたしのそばにいてくれる?」
「あ、ああ、そりゃもう、言われなくたっておれは…。あんたを大好きだからな」
冗談めかして応(こた)えたミツァラの顔に、ポッと赤味がさした。
「うれしいわ、ミツァラ…。にいさん
マーシーはあなたを選ばなかったから、わたしも…」
「傷が癒(い)えるまでは、わたしは君から離れないよ。あせることはない…」
「にいさん…」
ティモシィを見つめるラナの瞳には
満たされる望みのない愛を想う哀しみと
すべてをあるがままに受け入れる静謐(せいひつ)さがあった。
しばしの沈黙ののち、クイン・ジュノーが椅子から立ち上がった。
「そろそろ宿へ戻るか? おまえも少し休息を取ったほうがいいぞ」
クリスタが、ジュノーに声をかけた。
「そうしよう…。ラナ、ぼくは、早くあなたが健康を回復するよう
それから、バロータの魂が安らかな眠りにつけるよう
アティスの神へ祈ろうと思う…。それに…いや、なんでもない…」
クイン・ジュノーはラナへ歩み寄り、頬へ軽い別れの口づけをした。
−ぼくはティモシィから離れたほうがいいのだ…。
クリスタとの修行の旅を続けよう…。
「気をつけてね、クイン・ジュノー…」
ラナは、ジュノーの耳元へ低く囁いた。
「いつかきっと…わたしの願いを……」
「ラナ……」
ジュノーは、背後に佇(たたず)む長身の戦士の深いまなざしを
剣気のように意識しながら、我知らず
朧(おぼろ)な魔性のほほえみを口のはに浮かべた。
クインジュノー3妖かしの遣剣 ・ 完
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冬杜燈霧作の最新作[未来精子] をGAOLANDよりネット販売開始。
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「まあ、そういうめぐり合わせの時もあるさ。
君の眼にとまらなかったアルケドは
北側からカリックスのほうへ逃げたのだろうな…」
ティモシィが、ゆったりと壁に背をもたれ、続き部屋の扉を眺めながら言葉を返した。
「アルケドか…。力不足に気づいたならば
しばらくは身をひそませているかな?エルディンの一派だったあと二人…
ラキスとカーンは、どこへ消えたのか不明か…」
「ククノスがちらりともらしたが、ラキスとカーンは反逆の意志をひるがえしたようだ。
いずれはド・ボーモンの地へ戻るのではないかな…」
「ふむ、それにしても人のさだめとはわからんものだな…。
あのエルディンが、ああもあっけなく病(やまい)に斃(たお)れるとはだれが…」
扉がひらき、ユリアナと、ラナのかかりつけの医者が姿を現し
ミツァラは中途で言葉を切った。
「ジュノーの傷は軽いそうですわ。ラナも今日はとっても具合が良さそうで…」
手当ての済むのを待っていた二人へ
交互に明るいほほえみを向け、ユリアナが告げた。
「そうそう、心配ない、心配ない、では、わしはまた明日来るから」
小太りでささやかな頬髭(ほほひげ)を生やしている近在の医者は
あまり威厳のない早口で言った。
「お入りになって…。先生をお送りしてまいりますから…」
ユリアナが言い、ミツァラとティモシィは黙礼して続き部屋へ入った。
天蓋(てんがい)の寝台に、ラナは半身を起こしてすわり
足元に近い椅子にジュノーが浅く腰をおろし
そのすぐかたわらにクリスタが立っている。
眩しい日差しをさえぎっている亜麻色のカーテンをバックに
狼犬のマーシーが、変わらぬ(ぼうよう)茫洋とした寝姿を見せている。
「ラナが、怪我をした夜のことを思い出したそうだ」
ティモシィを見上げ、ジュノーが言葉をかけた。
「ほう…?」
ティモシィはわずかに眉を上げ、ラナへ近寄った。
「さきほど、ユリアナと四方山(よもやま)話をしていたら、突然
はっきりと頭に思い浮かんだの…。
わたしは涸(か)れ谷で落石に遇ったのですわ」
いかにも正気らしい落ち着いたようすで、ラナはティモシィへ告げた。
「落石!? ではノームバルとは関わりなしか?」
ミツァラが意外そうな声を上げ、両腕を組んで首をかしげた。
「あの夜、子供達を先に帰して、わたしは独りで岩にすわって
大きな月を眺めていたの…。アティスの歴史のことや、和平のこと
戦いのこと、長老のことや、兄さんのこと…、それから自分自身のことを
いろいろ考えて…ときが経っていったわ…」
ラナは、ティモシィからミツァラ、クリスタ、ジュノーへと視線を移し
再びティモシィへ深いまなざしを向けた。
「…帰ろうとして立ち上がったのだけれど
なにか奇妙ないざないを感じて、奥へ進んで行ったの…。
薄闇の中に高い崖が道を阻んでいて、上空に風の音が鳴っていた…。
崖の上を見上げた時、乾いて崩れやすくなっていた岩肌から
いくつもの石塊(いしくれ)が落ちて来て、頭がくらくらしたわ…。
わたしは帰らなくてはと思って、少し歩いて、また少し歩いた…。
だから、倒れた場所が崖から離れていたのでしょうね…」
「災いを察知しなかったのか…? 君らしくもないな」
穏やかに、ティモシィが言った。
「災いに魅入られたのかもしれないわ…。
だれでも、すべてが空しく思えて
生を放り捨ててしまいたくなるときがあるのではなくて…?」
ラナは、小さく、しかし、どこか挑(いど)むような口調で言葉を返した。
クリスタが、内省の表情を浮かべているティモシィの代わりに
「それは戦士にはありがちのことだろう。
多少とも物事を深く考える者ならば、なおさらだ」と、あいづちをうった。
ティモシィは、すっと右手を伸ばし
だいぶ血の気がよみがえってきているラナの頬に、軽く触れた。
「わたしを憎んでいるのかね…?」
このうえもなくやさしげに、ティモシィは問いかけた。
「…わからないわ…。もし憎んでいると言ったら、どうするの?」
「さて、どうするかな…。君に殺されるのは、べつだんかまわないが…」
「それほど憎んではいないわ…。わたしは、きつい人間ではないし…」
「それは助かった…」
ティモシィは妹の頬から手を離し、泰然(たいぜん)と微笑した。
「…あー、その、おぬし達は兄妹喧嘩(きょうだいげんか)をしていたのか?
ちっとも気づかなかったんだが?」
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そのため、見解の相違を許せなくなることがあるのさ」
ティモシィが、ラナから眼を離さずに答えた。
「ふーむ、どうもよくわからんが…」
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ミツァラを見て、ラナはほほえんだ。
「…ラナ…、アティスもノームバルも、戦士達は
しばらくは平穏を保って行くだろう…。わたし達も
この辺りでみずからのことを…アティスの一員としてではなく
自由な魂(たましい)をそなえた独りの人間として…
考え直してみたいと思うのだが、どうかね?」
「…自分のことだけ考えるのは、贅沢(ぜいたく)だけど、少し寂しいわね…」
ラナは眼を伏せ、深い吐息をついた。
そして、ゆっくりと顔を窓辺の狼犬(おおかみけん)へ向け、
「マーシー…」と、呼んだ。
「いい子ね、マーシー…。わたしのために
一番やさしい人がだれなのか、教えてくれない…?」
狼犬は、前足に乗せていた毛むくじゃらの顔を起こし
ラナを見上げ、いかにも犬らしい大あくびをした。
それからのっそりと立ち上がり、大きな体をかすかに左右に揺らしながら
ティモシィの脇をすり抜け、ミツァラの正面へ進んだ。
「なんだ、マーシー…?」
ミツァラが差し出した手に長い鼻面(はなづら)を押しつけ
ふーと息を洩らし、狼犬はその場にすわり込んだ。
「ありがとう、マーシー…。ミツァラ、わたしのそばにいてくれる?」
「あ、ああ、そりゃもう、言われなくたっておれは…。あんたを大好きだからな」
冗談めかして応(こた)えたミツァラの顔に、ポッと赤味がさした。
「うれしいわ、ミツァラ…。にいさん
マーシーはあなたを選ばなかったから、わたしも…」
「傷が癒(い)えるまでは、わたしは君から離れないよ。あせることはない…」
「にいさん…」
ティモシィを見つめるラナの瞳には
満たされる望みのない愛を想う哀しみと
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クリスタが、ジュノーに声をかけた。
「そうしよう…。ラナ、ぼくは、早くあなたが健康を回復するよう
それから、バロータの魂が安らかな眠りにつけるよう
アティスの神へ祈ろうと思う…。それに…いや、なんでもない…」
クイン・ジュノーはラナへ歩み寄り、頬へ軽い別れの口づけをした。
−ぼくはティモシィから離れたほうがいいのだ…。
クリスタとの修行の旅を続けよう…。
「気をつけてね、クイン・ジュノー…」
ラナは、ジュノーの耳元へ低く囁いた。
「いつかきっと…わたしの願いを……」
「ラナ……」
ジュノーは、背後に佇(たたず)む長身の戦士の深いまなざしを
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冬杜燈霧作の最新作[未来精子] をGAOLANDよりネット販売開始。
ブログ/冬杜燈霧のクィアな世界
「急な病だったと聞いたが…。気の毒に思っている…」
静かに言葉を返し、ジュノーはソードを鞘へ収めた。
「…おまえに、なにがわかる…?
志(こころざし)なかばにして、こともあろうに、病に屈するなど…」
「かけがえのない友をなくす気持ちは
薄々なりとさっしがつく…。つらいことと思う…」
「かけがえのない友!? ハッ! そんなものではないわ!
この男は…エルディンは、わたしの…王であり、支配者だった…」
突然声を荒らげ、バロータは、生首のとじられた瞳を狂おしく見つめた。
「わたしはエルディンにすべてをささげ、全霊をこめてつくした…。
愛されてなどいないとわかっていながら…。
エルディンは、わたしが望んで得られないものを、生まれながらにそなえていた…。
他を惹きつける魅力というものを…。おまえにわかる!?
だれからも容姿や人柄をほめられたことのない者の気持ちが!?
…エルディンだけだった…わたしを眼に止め、声をかけてくれたのは…。
それが親しみからではなく、絶対に忠誠を誓う
いざとなれば進んで楯(たて)ともなる奴隷(どれい)を
欲していたからだと知ったときには、もう離れられなくなっていた…。
それなのに…このような姿となり果てて…。いっそわたしの手で命を奪いたかった…」
光の凝ったバロータの瞳から、涙の粒がエルディンの首へ降りかかった。
「…死者とともにあなたの憎しみも埋葬してはどうだ…?
あなたはまだ若い…。ぼくは、あなたの容姿が
だれからもうとまれるほどに醜いとは、まったく思わないが…」
真摯(しんし)な口振りで告げたジュノーへ
バロータのまなざしが、引かれるように移った。
「おまえのように美しければ、わたしがエルディンを支配することができたものを…」
うっすらと、夢見るようにほほえみ、バロータは囁いた。
「…安らかに眠らせなどしない…。
これからはわたしが従わせる…。エルディンのたましいを…」
「バロータ…」
ジュノーは痛ましげに呟き、狂気の淵(ふち)へ
落ちようとしている者へ、二、三歩、歩み寄った。
かすかな大気の乱れが、背後に起こった。
クイン・ジュノーは、本能的に身をひるがえした。
しかし、バロータに心を奪われ過ぎていたため、ほんの一瞬、動作が遅れた。
ジュノーの首筋を狙い、宙を飛んで来た短剣は、肩先をかすめ、短衣を切り裂いた。
振り返ったジュノーの眼に、マルテスとよく似た面立ちのパンテールが
白布を巻いた腹部を片手でおさえ、力つきたように通廊に倒れ込むのが見えた。
「よくやったわ…あの子…」
ジュノーの肩からしたたり落ちる血を見つめ、バロータがうれしそうに呟いた。
「おまえ達がいずれここまでやって来ると、わたしにはわかっていた…。
アティスの血がたっぷりと流れるさまを、エルディンに見せたい…」
バロータは、腐肉の臭いが漂う生首を、ジュノーのほうへ向け、そっと床に置いた。
そして、おもむろにソードを引き抜き、両手でしっかりとかまえた。
「わたしの剣技は男並みだと、エルディンはよく言ってくれていた…」
穏やかとも聞こえる声音で呟きながら、バロータは殺気をみなぎらせた。
「待て!」
ジュノーは反射的にソードに手をかけた。
切り裂かれた右肩に、激痛が走った。
剣を抜けぬまま、ジュノーはバロータを見つめた。
「ぴりぴりと痛み、しびれるだろう?
あの子の短剣にはノームバル伝来の毒草の汁が
幾重(いくえ)にも塗りつけられているのさ…」
針のように眼を細め、バロータはソードを振りかぶった。
真っ向から、無言の気迫とともに、ソードがジュノーの顔を襲った。
クイン・ジュノーは斜めうしろへ倒れ込むと同時に
体を一回転させ、かろうじてやいばから逃れた。
しかし、バロータの動きはすばやく、体勢の崩れたジュノーの胸へ
叩きつけるように第二撃を打ち込んで来た。
−かわしきれない!!
他人のもののように力が抜け、剣を抜くことができない右手の代わりに
ジュノーは左手でソードを鞘の半ばまで引き出した。
鋭い金属音が響き、ジュノーのソードがバロータのやいばを受け止めた。
「ちっ!」
憎々しげに舌打ちし、バロータは三たびソードを振りかぶった。
次の瞬間、バロータの体がすべての動きを止めた。
ゆっくりとまぶたをとじ、ひと息、ヒューッという音を喉の奥から発し
バロータはぐらりとよろけ、ジュノーの脇へ倒れた。
「傷を負ったか!?」
通廊から走り込んで来たティモシィが
さっと、ジュノーのかたわらにひざまづいた。
「毒で、右腕が動かない。バロータは死んだのか…?」
静かに身を起こしながら、ジュノーは
バロータの背に深々と突き刺さっているティモシィのソードを見つめた。
「とっさに急所を狙ってしまった…。君が危ういと思ったので…」
淡々と言い、ティモシィはジュノーの肩の傷を調べ、応急手当をほどこした。
「これを呑むといい。たいがいの毒は薄まる…」
ティモシィが差し出した丸薬を、ジュノーは機械的に呑みくだした。
「歩けるか?」
「ああ…。足は大丈夫だ」
立ち上がろうとするジュノーを、ティモシィは抱くようにして助けた。
「あなたには感謝しているが、バロータは、少し気の毒だ…」
「わたしは、君に危害を加えようとする者には同情など感じないよ…」
ジュノーの腰にさりげなく左腕をまわした形のまま、ティモシィは言葉を返した。
「…ククノスは?」
「こちらに勝利の機運があったようだ…」
「息を止めたのか?」
「あの男は死に場所を求めていたように見えた…。
エルディンが生きていたら、べつの道を歩んでいたのかもしれぬが
意にそまぬ死にみまわれたエルディンに、義理立てをしたのではないかな」
ジュノーは、石畳の上にぽつんと残されている死者の首へ、眼を落とした。
天井の破れ目から射し込んでいる白い光の中で
腐敗しかけた生首は、魂の尊厳もなにもない
無惨な肉塊(にくかい)としか見えなかった。
「…傷が痛むか?」
ジュノーの顔色をじっとうかがい、ティモシィは訊いた。
「いや、無常を感じていただけだ…」
顔を上げ、ティモシィと瞳を合わせ、クイン・ジュノーは静かに微笑した。
「…わたしが命を落としたならば、やはり無常を感じてくれるかね…?」
右手をやんわりとジュノーの左肩へ置き、ティモシィは思案顔で尋ねた。
「ティモシィ…、ラナは、あなたを愛している…」
抱きすくめられたと言ってもよい状態のまま、ジュノーはとうとつに告げた。
「ラナにはわたしなどより優れた男がふさわしいさ…」
驚きのかけらもあらわさず、あっさりとティモシィは言った。
「やはり、あなたは、一人の男としてラナを愛しているわけではないのですね…」
琥珀色(こはくいろ)の瞳から視線を外し
ジュノーは改まった口振りで呟いた。
「…ラナを含めて、わたしは女に強く心を奪われた記憶を持たない…。
君だけだ、わたしの心にさざ波を立て
夜毎(よごと)の夢にわたしをいざなう魔性の者は…」
「ジュノー!! どこだ!? ティモシィ!! ジュノー!!・・・」
クリスタの荒々しい叫びが、二人の耳へとどいた。
「クリスタも無事のようだな、幸運な男だ…」
ほっとため息をつき、ティモシィは右手をジュノーの肩から下へすべらせ
左手をつかみ上げると、すばやく甲に口づけをした。
「ノームバルとの戦いの日々も、真実終焉(しゅうえん)に近づいたようだ…。
わたしも新たな生きがいを見いだすか…」
足早に近づいて来るクリスタの気配に、すっとジュノーから身を退き
ティモシィはおっとりとほほえんだ。
−…ティモシィ…?
クリスタへ答えるのも忘れ、ジュノーは、危険なほどに忍耐強く
容易にうかがい知れない内面の奥深さを秘めている、年上の男を見上げた。
「ジュノー!! どうした、大丈夫か!?」
通廊のひとつから姿を現したクリスタが、血に濡れたソードをさげ、走り寄った。
「…ああ。ぼくは…心配ない…」
クイン・ジュノーは静かにクリスタを振り返り、独りごとのように囁いた。
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静かに言葉を返し、ジュノーはソードを鞘へ収めた。
「…おまえに、なにがわかる…?
志(こころざし)なかばにして、こともあろうに、病に屈するなど…」
「かけがえのない友をなくす気持ちは
薄々なりとさっしがつく…。つらいことと思う…」
「かけがえのない友!? ハッ! そんなものではないわ!
この男は…エルディンは、わたしの…王であり、支配者だった…」
突然声を荒らげ、バロータは、生首のとじられた瞳を狂おしく見つめた。
「わたしはエルディンにすべてをささげ、全霊をこめてつくした…。
愛されてなどいないとわかっていながら…。
エルディンは、わたしが望んで得られないものを、生まれながらにそなえていた…。
他を惹きつける魅力というものを…。おまえにわかる!?
だれからも容姿や人柄をほめられたことのない者の気持ちが!?
…エルディンだけだった…わたしを眼に止め、声をかけてくれたのは…。
それが親しみからではなく、絶対に忠誠を誓う
いざとなれば進んで楯(たて)ともなる奴隷(どれい)を
欲していたからだと知ったときには、もう離れられなくなっていた…。
それなのに…このような姿となり果てて…。いっそわたしの手で命を奪いたかった…」
光の凝ったバロータの瞳から、涙の粒がエルディンの首へ降りかかった。
「…死者とともにあなたの憎しみも埋葬してはどうだ…?
あなたはまだ若い…。ぼくは、あなたの容姿が
だれからもうとまれるほどに醜いとは、まったく思わないが…」
真摯(しんし)な口振りで告げたジュノーへ
バロータのまなざしが、引かれるように移った。
「おまえのように美しければ、わたしがエルディンを支配することができたものを…」
うっすらと、夢見るようにほほえみ、バロータは囁いた。
「…安らかに眠らせなどしない…。
これからはわたしが従わせる…。エルディンのたましいを…」
「バロータ…」
ジュノーは痛ましげに呟き、狂気の淵(ふち)へ
落ちようとしている者へ、二、三歩、歩み寄った。
かすかな大気の乱れが、背後に起こった。
クイン・ジュノーは、本能的に身をひるがえした。
しかし、バロータに心を奪われ過ぎていたため、ほんの一瞬、動作が遅れた。
ジュノーの首筋を狙い、宙を飛んで来た短剣は、肩先をかすめ、短衣を切り裂いた。
振り返ったジュノーの眼に、マルテスとよく似た面立ちのパンテールが
白布を巻いた腹部を片手でおさえ、力つきたように通廊に倒れ込むのが見えた。
「よくやったわ…あの子…」
ジュノーの肩からしたたり落ちる血を見つめ、バロータがうれしそうに呟いた。
「おまえ達がいずれここまでやって来ると、わたしにはわかっていた…。
アティスの血がたっぷりと流れるさまを、エルディンに見せたい…」
バロータは、腐肉の臭いが漂う生首を、ジュノーのほうへ向け、そっと床に置いた。
そして、おもむろにソードを引き抜き、両手でしっかりとかまえた。
「わたしの剣技は男並みだと、エルディンはよく言ってくれていた…」
穏やかとも聞こえる声音で呟きながら、バロータは殺気をみなぎらせた。
「待て!」
ジュノーは反射的にソードに手をかけた。
切り裂かれた右肩に、激痛が走った。
剣を抜けぬまま、ジュノーはバロータを見つめた。
「ぴりぴりと痛み、しびれるだろう?
あの子の短剣にはノームバル伝来の毒草の汁が
幾重(いくえ)にも塗りつけられているのさ…」
針のように眼を細め、バロータはソードを振りかぶった。
真っ向から、無言の気迫とともに、ソードがジュノーの顔を襲った。
クイン・ジュノーは斜めうしろへ倒れ込むと同時に
体を一回転させ、かろうじてやいばから逃れた。
しかし、バロータの動きはすばやく、体勢の崩れたジュノーの胸へ
叩きつけるように第二撃を打ち込んで来た。
−かわしきれない!!
他人のもののように力が抜け、剣を抜くことができない右手の代わりに
ジュノーは左手でソードを鞘の半ばまで引き出した。
鋭い金属音が響き、ジュノーのソードがバロータのやいばを受け止めた。
「ちっ!」
憎々しげに舌打ちし、バロータは三たびソードを振りかぶった。
次の瞬間、バロータの体がすべての動きを止めた。
ゆっくりとまぶたをとじ、ひと息、ヒューッという音を喉の奥から発し
バロータはぐらりとよろけ、ジュノーの脇へ倒れた。
「傷を負ったか!?」
通廊から走り込んで来たティモシィが
さっと、ジュノーのかたわらにひざまづいた。
「毒で、右腕が動かない。バロータは死んだのか…?」
静かに身を起こしながら、ジュノーは
バロータの背に深々と突き刺さっているティモシィのソードを見つめた。
「とっさに急所を狙ってしまった…。君が危ういと思ったので…」
淡々と言い、ティモシィはジュノーの肩の傷を調べ、応急手当をほどこした。
「これを呑むといい。たいがいの毒は薄まる…」
ティモシィが差し出した丸薬を、ジュノーは機械的に呑みくだした。
「歩けるか?」
「ああ…。足は大丈夫だ」
立ち上がろうとするジュノーを、ティモシィは抱くようにして助けた。
「あなたには感謝しているが、バロータは、少し気の毒だ…」
「わたしは、君に危害を加えようとする者には同情など感じないよ…」
ジュノーの腰にさりげなく左腕をまわした形のまま、ティモシィは言葉を返した。
「…ククノスは?」
「こちらに勝利の機運があったようだ…」
「息を止めたのか?」
「あの男は死に場所を求めていたように見えた…。
エルディンが生きていたら、べつの道を歩んでいたのかもしれぬが
意にそまぬ死にみまわれたエルディンに、義理立てをしたのではないかな」
ジュノーは、石畳の上にぽつんと残されている死者の首へ、眼を落とした。
天井の破れ目から射し込んでいる白い光の中で
腐敗しかけた生首は、魂の尊厳もなにもない
無惨な肉塊(にくかい)としか見えなかった。
「…傷が痛むか?」
ジュノーの顔色をじっとうかがい、ティモシィは訊いた。
「いや、無常を感じていただけだ…」
顔を上げ、ティモシィと瞳を合わせ、クイン・ジュノーは静かに微笑した。
「…わたしが命を落としたならば、やはり無常を感じてくれるかね…?」
右手をやんわりとジュノーの左肩へ置き、ティモシィは思案顔で尋ねた。
「ティモシィ…、ラナは、あなたを愛している…」
抱きすくめられたと言ってもよい状態のまま、ジュノーはとうとつに告げた。
「ラナにはわたしなどより優れた男がふさわしいさ…」
驚きのかけらもあらわさず、あっさりとティモシィは言った。
「やはり、あなたは、一人の男としてラナを愛しているわけではないのですね…」
琥珀色(こはくいろ)の瞳から視線を外し
ジュノーは改まった口振りで呟いた。
「…ラナを含めて、わたしは女に強く心を奪われた記憶を持たない…。
君だけだ、わたしの心にさざ波を立て
夜毎(よごと)の夢にわたしをいざなう魔性の者は…」
「ジュノー!! どこだ!? ティモシィ!! ジュノー!!・・・」
クリスタの荒々しい叫びが、二人の耳へとどいた。
「クリスタも無事のようだな、幸運な男だ…」
ほっとため息をつき、ティモシィは右手をジュノーの肩から下へすべらせ
左手をつかみ上げると、すばやく甲に口づけをした。
「ノームバルとの戦いの日々も、真実終焉(しゅうえん)に近づいたようだ…。
わたしも新たな生きがいを見いだすか…」
足早に近づいて来るクリスタの気配に、すっとジュノーから身を退き
ティモシィはおっとりとほほえんだ。
−…ティモシィ…?
クリスタへ答えるのも忘れ、ジュノーは、危険なほどに忍耐強く
容易にうかがい知れない内面の奥深さを秘めている、年上の男を見上げた。
「ジュノー!! どうした、大丈夫か!?」
通廊のひとつから姿を現したクリスタが、血に濡れたソードをさげ、走り寄った。
「…ああ。ぼくは…心配ない…」
クイン・ジュノーは静かにクリスタを振り返り、独りごとのように囁いた。
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「二人とも、少し離れてくれ」
ジュノーが指示を出し、忍びやかな身ごなしで外れかけた扉へ近づいた。
扉の正面より一歩手前に足を止め
ジュノーは、ソードを一閃(いっせん)させた。
歪んだちょうつがいが断ち切られ、扉がゆっくりと内側へ倒れ込んだ。
「くっ」と、低いうめき声が上がり
蝶つがいと共に左腕を傷つけられたマルテスが
右腕一本でジュノーへ剣を突き出した。
体勢の崩れたマルテスの突きを難なくかわし
ジュノーは部屋の中へ跳び込んだ。
あとへ続いたクリスタがマルテスの胸をなぎ払った。
「不意打ちの好きなやつだ…」
どうっと倒れかかるマルテスの体をよけ、ティモシィが呟いた。
「エルディン…?」
四角く広い部屋の奥に立つ三人の戦士と
折れた石柱の上に乗っているものを見て、ジュノーがわずかに眉をひそめた。
クリスタとティモシィがジュノーの脇へ立ち
同じように、石柱の上のものを見つめた。
黒みがかったいやな色に腫(は)れ上がり、茶色い乱れ髪を垂らして
腐臭を放っているそれは、胴体を失ったエルディンの首だった。
「…ノームバルに死者の首を持ち歩く風習があるとは知らなかった…。
しかし、いつ斃(たお)れたのだ?」
ソードを額の前にかざして軽く一礼し、ティモシィが穏やかに尋ねた。
「…二日、いや、三日前に、病(やまい)で命を落とした…。急激な衰弱だった…」
両側に、フォッカと、若年のアルケドを従えたククノスが、けだものじみた
でこぼこ顔にいちまつの憂(うれ)いを漂わせ、聞き取りにくい低声で答えた。
「首を切り落としたのはおれ達の風習ではないぞ。バロータが勝手にやったことだ」
フォッカが、冷たいしゃがれ声で口をはさんだ。
「バロータは、なぜそんなことを?」
静かに、クイン・ジュノーが訊いた。
「ふん、おまえ達に呪いをかけるためと口走っていたが、おれは知らん。
あの女はエルディンが死んだことを認めたがらんのだ。
この生首に魂(たましい)が宿っていると思っているらしいが…」
せせら笑うような表情を浮かべたフォッカに、ぼさぼさ髪のアルケドが
「そのような言い方はやめろ!
バロータはだれよりもエルディンを慕っていたから…
お、おれにはわかるぞ!」と、噛みついた。
フォッカは肩をすくめ、
「うるさいやつだ、それなら傷心(しょうしん)のバロータを慰めに行けばよかろう」と
つまらなそうに言葉を返した。
「おれは! こやつらと戦う!」
アルケドは怒鳴り、ソードを抜いて、たたっと、二、三歩、前へ進み出た。
「バロータはどこにいるのだ?」
ティモシィが、ククノスへ向かって言葉をかけた。
「…奥だ…」
口の中で呟き、ククノスは重々しい動作で
幅広の青龍刀(せいりゅうとう)を引き抜いた。
「ほかの者は?」
尋ねつつ、ティモシィはゆっくりと部屋の中ほどまで進んだ。
「さあな…」
ククノスは虚無的に唸り
「おぬしと、存分にやりたい…」と、ティモシィに挑(いど)んだ。
「よかろう」
「では、おれの相手はきさまだ、クリスタ。
ツグルトの仇(かたき)、討たせてもらおう…」
陰気な笑みを浮かべたフォッカに、クリスタは荒々しくソードをひと振りし
「来い、返り討ちにしてやる」と、きっぱり応えた。
ククノスとティモシィの剣が触れ合うと同時に
フォッカとクリスタも闘いを開始した。
一瞬遅れて、アルケドがジュノーへ切りかかった。
クイン・ジュノーは、ふわりと横へ跳び
壁の裂け目からとなりの空き部屋へ身を移した。
「待て!」
アルケドもとなりの部屋へ跳び込んだ。
大小の石塊(いしくれ)が散らばる足場の悪い床の上で
アルケドは、ジュノーのしなやかな体からくり出される突きを
かろうじて受け流し、数回、剣先を交えてから、突然
自分の相手がはるかに格上の剣士らしいと気づき、蒼白(そうはく)となった。
捨て身の覚悟で、アルケドは、ジュノーのふところへ跳び込んだ。
ジュノーの剣が煌(きら)めく光芒(こうぼう)を発し、アルケドの手首に衝撃が走った。
次の瞬間、どこをどうされたのか定かでないまま
アルケドは床の上に斜めに倒れ込み、鼻先に
ジュノーの銀色のソードの切っ先が突きつけられていた。
「お、おれの剣は…!?」
しびれた利き手と無傷の体を意識の端にのぼせながら、アルケドは口走った。
「刀身を折った…。もう使い物にならない」
クイン・ジュノーは無表情に答え、石塊の間に落ちている分断されたソードを示した。
「くそっ! なにを待ってる!? は、早く殺せ!!」
「殺すのは好みではない。死に急ぎたいか?」
「おれは…見逃そうと言うのか!? そ、そいつは侮辱だ!!」
「では、次の機会には侮辱は与えないと約束しよう…。この場から立ち去れ!」
すっと剣を引き、凜(りん)とした声音で、ジュノーは命じた。
アルケドは呆然とジュノーの静かな美貌を見上げ
はっと身を起こすと、激しい憤りの念を瞳に浮かべ
はじけるような勢いで広間とは逆の通廊へ走り去った。
−災いの種を見のがしたか…?
心の中で呟きつつ、ジュノーは壁の裂け目から広間の闘いを眺めた。
そろって大柄なティモシィとククノスの二戦士は
広間のほぼ中央に足場を占め、クリスタ、フォッカの剣戟(けんげき)は
自然、壁ぎわへ追いやられた形になっている。
「おもてへ出ろ! ここは狭い!」
存分に腕を伸ばし、青龍刀をふるっているククノスを横目に
いらだった声音でフォッカが叫んだ。
「よし!」
ちらりと、ジュノーの無事な姿を確かめ
クリスタは外へ通じる廊下へと身をひるがえした。
クイン・ジュノーは、クリスタとフォッカの後を追おうとし、ある変化に気づいて足を止めた。
「エルディンの首は!?」
ぬらりとした染みを残す石柱の上を見、ジュノーは二人の戦士へ尋ねかけた。
「奥だ! バロータが、持ち去った!」
危なげのない身ごなしでククノスの一撃をかわしながら、ティモシィが答えた。
一瞬の躊躇(ちゅうちょ)を見せてから
ジュノーは外へ向かう代わりに奥の扉へ走った。
空の続き部屋を二つ走り抜け、大きく左へ折れ曲がったところに
五つの通廊が集まっている、円い石畳の小部屋のような空間があった。
クイン・ジュノーはぴたりと足を止め
男物の麻服の腰にソードを差したうしろ姿を見やった。
地味な褐色の髪と丸みに乏しい体つきは、バロータに違いなかった。
両手でエルディンの生首をささげ持ち、虚脱したように立ちつくしている。
そっと、ジュノーはバロータの顔が見える位置へ歩を進めた。
ゆっくりと、バロータの瞳がジュノーの姿をとらえた。
能面のような顔貌は慰霊祭の時に比して蒼ざめ
鬼気(きき)迫るほどにやつれている。
「…おまえ…おまえと、剣を交えたがっていたのに…」
バロータは、乾き切った無感動な声で呟いた。
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「エルディン…?」
四角く広い部屋の奥に立つ三人の戦士と
折れた石柱の上に乗っているものを見て、ジュノーがわずかに眉をひそめた。
クリスタとティモシィがジュノーの脇へ立ち
同じように、石柱の上のものを見つめた。
黒みがかったいやな色に腫(は)れ上がり、茶色い乱れ髪を垂らして
腐臭を放っているそれは、胴体を失ったエルディンの首だった。
「…ノームバルに死者の首を持ち歩く風習があるとは知らなかった…。
しかし、いつ斃(たお)れたのだ?」
ソードを額の前にかざして軽く一礼し、ティモシィが穏やかに尋ねた。
「…二日、いや、三日前に、病(やまい)で命を落とした…。急激な衰弱だった…」
両側に、フォッカと、若年のアルケドを従えたククノスが、けだものじみた
でこぼこ顔にいちまつの憂(うれ)いを漂わせ、聞き取りにくい低声で答えた。
「首を切り落としたのはおれ達の風習ではないぞ。バロータが勝手にやったことだ」
フォッカが、冷たいしゃがれ声で口をはさんだ。
「バロータは、なぜそんなことを?」
静かに、クイン・ジュノーが訊いた。
「ふん、おまえ達に呪いをかけるためと口走っていたが、おれは知らん。
あの女はエルディンが死んだことを認めたがらんのだ。
この生首に魂(たましい)が宿っていると思っているらしいが…」
せせら笑うような表情を浮かべたフォッカに、ぼさぼさ髪のアルケドが
「そのような言い方はやめろ!
バロータはだれよりもエルディンを慕っていたから…
お、おれにはわかるぞ!」と、噛みついた。
フォッカは肩をすくめ、
「うるさいやつだ、それなら傷心(しょうしん)のバロータを慰めに行けばよかろう」と
つまらなそうに言葉を返した。
「おれは! こやつらと戦う!」
アルケドは怒鳴り、ソードを抜いて、たたっと、二、三歩、前へ進み出た。
「バロータはどこにいるのだ?」
ティモシィが、ククノスへ向かって言葉をかけた。
「…奥だ…」
口の中で呟き、ククノスは重々しい動作で
幅広の青龍刀(せいりゅうとう)を引き抜いた。
「ほかの者は?」
尋ねつつ、ティモシィはゆっくりと部屋の中ほどまで進んだ。
「さあな…」
ククノスは虚無的に唸り
「おぬしと、存分にやりたい…」と、ティモシィに挑(いど)んだ。
「よかろう」
「では、おれの相手はきさまだ、クリスタ。
ツグルトの仇(かたき)、討たせてもらおう…」
陰気な笑みを浮かべたフォッカに、クリスタは荒々しくソードをひと振りし
「来い、返り討ちにしてやる」と、きっぱり応えた。
ククノスとティモシィの剣が触れ合うと同時に
フォッカとクリスタも闘いを開始した。
一瞬遅れて、アルケドがジュノーへ切りかかった。
クイン・ジュノーは、ふわりと横へ跳び
壁の裂け目からとなりの空き部屋へ身を移した。
「待て!」
アルケドもとなりの部屋へ跳び込んだ。
大小の石塊(いしくれ)が散らばる足場の悪い床の上で
アルケドは、ジュノーのしなやかな体からくり出される突きを
かろうじて受け流し、数回、剣先を交えてから、突然
自分の相手がはるかに格上の剣士らしいと気づき、蒼白(そうはく)となった。
捨て身の覚悟で、アルケドは、ジュノーのふところへ跳び込んだ。
ジュノーの剣が煌(きら)めく光芒(こうぼう)を発し、アルケドの手首に衝撃が走った。
次の瞬間、どこをどうされたのか定かでないまま
アルケドは床の上に斜めに倒れ込み、鼻先に
ジュノーの銀色のソードの切っ先が突きつけられていた。
「お、おれの剣は…!?」
しびれた利き手と無傷の体を意識の端にのぼせながら、アルケドは口走った。
「刀身を折った…。もう使い物にならない」
クイン・ジュノーは無表情に答え、石塊の間に落ちている分断されたソードを示した。
「くそっ! なにを待ってる!? は、早く殺せ!!」
「殺すのは好みではない。死に急ぎたいか?」
「おれは…見逃そうと言うのか!? そ、そいつは侮辱だ!!」
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すっと剣を引き、凜(りん)とした声音で、ジュノーは命じた。
アルケドは呆然とジュノーの静かな美貌を見上げ
はっと身を起こすと、激しい憤りの念を瞳に浮かべ
はじけるような勢いで広間とは逆の通廊へ走り去った。
−災いの種を見のがしたか…?
心の中で呟きつつ、ジュノーは壁の裂け目から広間の闘いを眺めた。
そろって大柄なティモシィとククノスの二戦士は
広間のほぼ中央に足場を占め、クリスタ、フォッカの剣戟(けんげき)は
自然、壁ぎわへ追いやられた形になっている。
「おもてへ出ろ! ここは狭い!」
存分に腕を伸ばし、青龍刀をふるっているククノスを横目に
いらだった声音でフォッカが叫んだ。
「よし!」
ちらりと、ジュノーの無事な姿を確かめ
クリスタは外へ通じる廊下へと身をひるがえした。
クイン・ジュノーは、クリスタとフォッカの後を追おうとし、ある変化に気づいて足を止めた。
「エルディンの首は!?」
ぬらりとした染みを残す石柱の上を見、ジュノーは二人の戦士へ尋ねかけた。
「奥だ! バロータが、持ち去った!」
危なげのない身ごなしでククノスの一撃をかわしながら、ティモシィが答えた。
一瞬の躊躇(ちゅうちょ)を見せてから
ジュノーは外へ向かう代わりに奥の扉へ走った。
空の続き部屋を二つ走り抜け、大きく左へ折れ曲がったところに
五つの通廊が集まっている、円い石畳の小部屋のような空間があった。
クイン・ジュノーはぴたりと足を止め
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地味な褐色の髪と丸みに乏しい体つきは、バロータに違いなかった。
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そっと、ジュノーはバロータの顔が見える位置へ歩を進めた。
ゆっくりと、バロータの瞳がジュノーの姿をとらえた。
能面のような顔貌は慰霊祭の時に比して蒼ざめ
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「ラナが倒れていたのは、その辺りだ。
螢(ほたる)狩りに来た若者達が見つけてくれたのだがね」
ティモシィが少し先の一点をさし、そう説明した。
「昨夜、あなたが襲われた場所は?」
ジュノーが尋ねると、ティモシィは長い足で
もつれた枯れ枝の塊(かたまり)をまたぎ越しながら
「だいぶ奥だ。くり抜かれた椀(わん)のような奇岩が近くにあったな」と、言葉を返した。
「ラナの容体は、今朝は…?」
心持ち声を低め、ジュノーは訊いた。
「昨日と大差はないが…、そうだな、少し機嫌が良くなったようだ。
君達が見舞いに来てくれたせいかもしれない」
「そうか…」
呟き、ジュノーはそれきりしばらく口を噤んだ。
次第に眩しく、暑く輝き始めた照り返しを避け、一行は森陰へ身を移した。
頭上に生い茂った木々の葉の、斑(まだら)の影を浴びながら
戦士達は涸れ谷に沿って東へ進んだ。
途中、何カ所か、落石や地盤の隆起によって川底がとぎれているところがあったが
道を見失うほどの切れ目はなく
森の下生えもさほど密生しておらず、進むのはたやすかった。
「あれか…?」
クリスタが、つと片手を伸ばし、谷の崖ふちに
ごろりとした威容を誇っている洞型(ほらがた)の大岩を指した。
「うむ。わたしは昨日は日の高いうちにカリックス側へ渡り
森の中を斜めに散策しながらこちら側へ戻って来たのだが
この辺りで足を休めて夜鶯(ようぐいす)の声に聞き惚れていたところ
背後の岩陰から剣を突き出されたのだ…。
どうも無粋(ぶすい)な若者だな、あのパンテールもマルテスも…」
「そりゃあ、世の中、あんたのような風流人ばかりではないからな」
クリスタは真顔で言い、鋭い目つきで周囲を見渡した。
「深手を負わせたのか?」
ジュノーが、ティモシィに尋ねた。
「さて、なんとも言えんが、今戦える状態ではなかろう…」
かすかに肩をすくめ、ティモシィは虚無的に呟いた。
「動けず、いまだ近くにひそんでいるかもしれんのだな?
よし、おれがちょいと高みから偵察してみよう、待ってくれ」
ミツァラが早口で皆に告げ、南側の崖の上をはるかに越える高さまで
太い幹を伸ばしている瘤木(こぶき)に跳びついた。
はしごを駈け登るのと大差ない見事な速さで、するすると巨木の頂上近くへ達し
ミツァラはじっくりと八方を身おろした。
「なにか見つけたようだ…」
額に小手をかざし、見上げていたクリスタが、眼を細めて呟いた。
ミツァラは地上の仲間達へちらりと眼を落とし、ぐっと
東北東へ向けて右腕を伸ばしてみせてから、おもむろに下へ戻り始めた。
「城跡…いや、古い砦(とりで)のようなものがあるぞ」
一番下の枝から跳び降りると同時に、ミツァラは活気づいた声音で、そう報告した。
「距離は?」
クリスタが、森の中を透かし見ながら尋ねた。
「そうだな、えーと、半時(はんとき)はかかるまい。
そうとうに大きい砦跡だ。人影までは見えなかった」
「行ってみるか」
ティモシィが言い、クリスタが
「よし」と、うなずいた。
森の中へ入り、方向をあやまたぬよう慎重に進んで行くあいだ
戦士達は間近に迫っているかもしれぬ敵を想い、無言を通した。
やがて、前方の木々の合間にひらけた草地が見え
乾いた白い骨のような色合いの石の壁と、半分以上は崩れ
風化寸前となっている、城ほどの大きさの砦跡が視界にとらえられた。
「…君は、あれに登ってもらおうか…」
ティモシィが、ざっとその場のようすを眺め
森の切れ目に立つ枝振りの良い赤松を差し、ミツァラへ、低声で指示した。
「わかった」
囁き返し、ミツァラはさっそく赤松へ駈け寄り、登り始めた。
「だれかひそんでいるとすれば
気づかれずに近づくのは、まず無理だ。堂々と行くか…」
ティモシィは、クリスタとジュノーを見、独りごとのような口調で言った。
「良いではないか。堂々と、ミツァラの弓の腕の援護を受けつつ、近づこう」
うっすらと笑い、クリスタが先に立って草地へ足を踏み出した。
膝(ひざ)の辺りまで伸びている夏草を踏み分け、三人は
互いにつかず離れずの歩幅を保ちながら
陽光にさらされ明るい白壁に空いた、暗い影の裂け目へと向かった。
砦の内側へ身を入れると、三人は、申し合わせたように立ち止まり
崩れかけた石壁や瓦礫(がれき)におおわれた床、また一方では
なんとか昔の堅牢さを残して立ってはいるが
荒寥(こうりょう)として見捨てられた部屋べやを見渡し、生き物の気配をうかがった。
「…血ではないか?」
屋根の落ちた通廊の一角に眼を止め、ジュノーが静かに言った。
ちょうど大人の腰ほどの高さの白壁に、こすれたような一条の赤黒い汚点があった。
「そのようだ、パンテールのものか?」
「おれは隠れんぼは好かぬ…。おい!! だれかいるなら出て来い!!
臆(おく)したなら臆したと言え!!」
クリスタが、挑戦的な大声で呼ばわった。
しばしの間をおき、いくつもの壁をへだて、くぐもった遠雷(えんらい)のように
「…臆してなどいない…。こっちへ、来るがいい…」という男声の返事が響いた。
「エルディンの声ではないな、ククノスのようだ。招待に応じるかね?」
ティモシィの問いに、クリスタは、
「出て来るのが面倒だというならば、行くしかないだろう」と、あっさり答え
奥へ向かって歩き出した。
破れた天井の裂け目から眩しい光が射し込んでいる
虚(うつ)ろな続き部屋を抜け、ぐらつく石段を上り
行き止まりの通廊を戻り、また違った虚ろな続き部屋を過ぎたところで、ジュノーが
「待て」と言い、足を止めた。
「どうした? やつらはすぐそこにいるぞ」
早くも剣気を全身にみなぎらせ、クリスタが
前方の白壁に見えている傾いた扉を示した。
「気配に、尋常でないものを感じる…。先に行かせてくれ」
「それならおれが先に行く」
「いや、ここはぼくのほうが良い、頼む」
クイン・ジュノーはセザリーの剣を、すっと引き抜き
あらがえない冷徹さを瞳に浮かべ、クリスタを見つめた。
「…しかたがない…。では、気をつけろ…」
ぐっと唇を噛みしめてから、しぶしぶクリスタは先頭をゆずった。
「ジュノー」
ティモシィが、抑えた声音で呼んだ。
ジュノーとクリスタは無言で振り返った。
「…いや、何でもない。あとで話そう…」
軽く吐息をつき、ティモシィはかすかに悩ましげにジュノーの白い顔を眺めた。
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「だいぶ奥だ。くり抜かれた椀(わん)のような奇岩が近くにあったな」と、言葉を返した。
「ラナの容体は、今朝は…?」
心持ち声を低め、ジュノーは訊いた。
「昨日と大差はないが…、そうだな、少し機嫌が良くなったようだ。
君達が見舞いに来てくれたせいかもしれない」
「そうか…」
呟き、ジュノーはそれきりしばらく口を噤んだ。
次第に眩しく、暑く輝き始めた照り返しを避け、一行は森陰へ身を移した。
頭上に生い茂った木々の葉の、斑(まだら)の影を浴びながら
戦士達は涸れ谷に沿って東へ進んだ。
途中、何カ所か、落石や地盤の隆起によって川底がとぎれているところがあったが
道を見失うほどの切れ目はなく
森の下生えもさほど密生しておらず、進むのはたやすかった。
「あれか…?」
クリスタが、つと片手を伸ばし、谷の崖ふちに
ごろりとした威容を誇っている洞型(ほらがた)の大岩を指した。
「うむ。わたしは昨日は日の高いうちにカリックス側へ渡り
森の中を斜めに散策しながらこちら側へ戻って来たのだが
この辺りで足を休めて夜鶯(ようぐいす)の声に聞き惚れていたところ
背後の岩陰から剣を突き出されたのだ…。
どうも無粋(ぶすい)な若者だな、あのパンテールもマルテスも…」
「そりゃあ、世の中、あんたのような風流人ばかりではないからな」
クリスタは真顔で言い、鋭い目つきで周囲を見渡した。
「深手を負わせたのか?」
ジュノーが、ティモシィに尋ねた。
「さて、なんとも言えんが、今戦える状態ではなかろう…」
かすかに肩をすくめ、ティモシィは虚無的に呟いた。
「動けず、いまだ近くにひそんでいるかもしれんのだな?
よし、おれがちょいと高みから偵察してみよう、待ってくれ」
ミツァラが早口で皆に告げ、南側の崖の上をはるかに越える高さまで
太い幹を伸ばしている瘤木(こぶき)に跳びついた。
はしごを駈け登るのと大差ない見事な速さで、するすると巨木の頂上近くへ達し
ミツァラはじっくりと八方を身おろした。
「なにか見つけたようだ…」
額に小手をかざし、見上げていたクリスタが、眼を細めて呟いた。
ミツァラは地上の仲間達へちらりと眼を落とし、ぐっと
東北東へ向けて右腕を伸ばしてみせてから、おもむろに下へ戻り始めた。
「城跡…いや、古い砦(とりで)のようなものがあるぞ」
一番下の枝から跳び降りると同時に、ミツァラは活気づいた声音で、そう報告した。
「距離は?」
クリスタが、森の中を透かし見ながら尋ねた。
「そうだな、えーと、半時(はんとき)はかかるまい。
そうとうに大きい砦跡だ。人影までは見えなかった」
「行ってみるか」
ティモシィが言い、クリスタが
「よし」と、うなずいた。
森の中へ入り、方向をあやまたぬよう慎重に進んで行くあいだ
戦士達は間近に迫っているかもしれぬ敵を想い、無言を通した。
やがて、前方の木々の合間にひらけた草地が見え
乾いた白い骨のような色合いの石の壁と、半分以上は崩れ
風化寸前となっている、城ほどの大きさの砦跡が視界にとらえられた。
「…君は、あれに登ってもらおうか…」
ティモシィが、ざっとその場のようすを眺め
森の切れ目に立つ枝振りの良い赤松を差し、ミツァラへ、低声で指示した。
「わかった」
囁き返し、ミツァラはさっそく赤松へ駈け寄り、登り始めた。
「だれかひそんでいるとすれば
気づかれずに近づくのは、まず無理だ。堂々と行くか…」
ティモシィは、クリスタとジュノーを見、独りごとのような口調で言った。
「良いではないか。堂々と、ミツァラの弓の腕の援護を受けつつ、近づこう」
うっすらと笑い、クリスタが先に立って草地へ足を踏み出した。
膝(ひざ)の辺りまで伸びている夏草を踏み分け、三人は
互いにつかず離れずの歩幅を保ちながら
陽光にさらされ明るい白壁に空いた、暗い影の裂け目へと向かった。
砦の内側へ身を入れると、三人は、申し合わせたように立ち止まり
崩れかけた石壁や瓦礫(がれき)におおわれた床、また一方では
なんとか昔の堅牢さを残して立ってはいるが
荒寥(こうりょう)として見捨てられた部屋べやを見渡し、生き物の気配をうかがった。
「…血ではないか?」
屋根の落ちた通廊の一角に眼を止め、ジュノーが静かに言った。
ちょうど大人の腰ほどの高さの白壁に、こすれたような一条の赤黒い汚点があった。
「そのようだ、パンテールのものか?」
「おれは隠れんぼは好かぬ…。おい!! だれかいるなら出て来い!!
臆(おく)したなら臆したと言え!!」
クリスタが、挑戦的な大声で呼ばわった。
しばしの間をおき、いくつもの壁をへだて、くぐもった遠雷(えんらい)のように
「…臆してなどいない…。こっちへ、来るがいい…」という男声の返事が響いた。
「エルディンの声ではないな、ククノスのようだ。招待に応じるかね?」
ティモシィの問いに、クリスタは、
「出て来るのが面倒だというならば、行くしかないだろう」と、あっさり答え
奥へ向かって歩き出した。
破れた天井の裂け目から眩しい光が射し込んでいる
虚(うつ)ろな続き部屋を抜け、ぐらつく石段を上り
行き止まりの通廊を戻り、また違った虚ろな続き部屋を過ぎたところで、ジュノーが
「待て」と言い、足を止めた。
「どうした? やつらはすぐそこにいるぞ」
早くも剣気を全身にみなぎらせ、クリスタが
前方の白壁に見えている傾いた扉を示した。
「気配に、尋常でないものを感じる…。先に行かせてくれ」
「それならおれが先に行く」
「いや、ここはぼくのほうが良い、頼む」
クイン・ジュノーはセザリーの剣を、すっと引き抜き
あらがえない冷徹さを瞳に浮かべ、クリスタを見つめた。
「…しかたがない…。では、気をつけろ…」
ぐっと唇を噛みしめてから、しぶしぶクリスタは先頭をゆずった。
「ジュノー」
ティモシィが、抑えた声音で呼んだ。
ジュノーとクリスタは無言で振り返った。
「…いや、何でもない。あとで話そう…」
軽く吐息をつき、ティモシィはかすかに悩ましげにジュノーの白い顔を眺めた。
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